100歳まで元気で動ける!ヨガ教室カナリヤ 堀内貢次プロフィール

なぜわたしが【いたわる】を使命に掲げているのか、そのわけを聴いていただけますか?

はじめまして!
100歳まで元気で動ける!健康ヨガ教室の堀内貢次(ほりうちこうじ)です。

ひとつのことを黙々とやり続ける父。面倒見のいい母。そんな両親に育てられたわたしがヨガを通して、みなさんに恩返しをしていきたいと思っています。

100歳までのヨガの先生

「やりたいことがいっぱいあるから、老後が楽しい」といっていただけることが、わたしのよろこびです。

なぜわたしが【いたわる】使命に掲げているのか、そのわけを聴いていただけますか?

「ありがたいねぇ。こうちゃん、やさしいねぇ」

わたしが小学生のころ、父は、休みの日になると、犬小屋、庭のブランコ、藤棚を作ったり、家の修理をしていました。黙々と作業している姿を見て、「すごいなぁ。なんでも作っちゃうんだ」と思いました。

会社役員専用のハイヤーの営業をしていた父は

、仕事の関係でゴルフをやっていました。「ゴルフの練習に犬も連れていくけど、コージもいくか?」と声をかけて、つれていってくれました。

人のいないだだっ広い広場で、ボールを打っては拾い、打っては拾う。わたしも一緒に、ボール拾いを手伝っていました。

父が黙々とゴルフをする姿を見て、「よく、こんな同じことできるなぁ」
と関心していました。

子供のころの写真

母は、面倒見のいい、あったかい人でした。母のまわりにはいつも人が集まる。しゃべるのが苦手で一人でいるのが多かったわたしのことをとくに気にかけてくれました

母は、午後3時から夜9時まで、NTTの交換手の仕事をしていました。それ以外の時間は、内職。へびのおもちゃに虫ピンを通す仕事でした。

幼稚園から帰ると、「早く終わらないかなぁ」と、母の役に立ちたい一心で、わたしも手伝っていました。

すると、母は「ありがたいねぇ。やさしいねぇ。助かったわ」と声をかけてくれたのです。それが、子どもながらに、とてもうれしかったです。

子供の頃の写真
子供の頃の写真

「最後の最後で、一番伸びたな!」

小さなころから、しゃべるのが苦手で、みんなとなにかするのが好きでありませんでした。両親が働いていたので、家で、図鑑を見たり、一人でゲームをすることが好きでした。

そんなわたしを見かねて、両親は、わたしになにかやらせなきゃと思ったのです。両親のすすめで、小学1年のとき、少年野球のチームに入りました。

足が早く、運動神経はよかったので、ショートを守らせれました。ある日、練習のとき、簡単なフライを落としてしまったのです。

その瞬間、「かっこわるい!」という強烈な感情におそわれました。

みっともない気持ちで、かっこわるい自分をイヤになりました。その場にいることが、いたたまれなくなりました。

周りから変なことを言われる前に、「ここから逃げたい」と思い、半年で、野球チームをやめてしまったのです。

その後、珠算、少林寺など、いろいろな習い事を両親が見つけてきましたが、どれも半年あまりでやめてしまう。うまくできないと、自分がイヤになり逃げだしてしまうのです。

小学校5年・6年のときの担任の先生は、加藤先生といいます。
生徒一人一人に愛情をそそぎ、熱血さを持って生徒と接する加藤先生の魅力で、クラスが一つにまとまっていました。

ときどき授業を聞いていないと、先生は、真剣な眼差しで、ごつんとゲンコツをするのです。

そのあと、わたしが落ち込んでいないか、表情を見て、やさしく目配せしてくれました。

母も「いい先生よねぇ」と感心していました。わたしは、「将来、あんな先生になりたいなぁ」と思っていたのです。

中学に入っても、体操部に入るも、うまくできなくてやめてしまう…

そんな中学生活が、中学3年のとき、一変します。同級生で仲がよかった中尾くんが、劇的に変わったのです。地味でおとなしい中尾くんが、努力して成績優秀、学級委員までやるようになったのです。

先生からも「中尾はすごい!」と言われるのを聴いて、「やれば変われるんだ。自分も中尾くんのようになりたい」と強く思うようになりました。うまくできないと、自分がいやになり、逃げてしまう自分を変えるチャンスだと思ったのです。

中学2年から始めたバレーボール部、とてもレギュラーになれるような実力ではありません。でも、中尾くんの成長する姿を見て、無性に「レギュラーになりたい!」と思ったのです。

家に帰ってからもうちの庭で毎日黙々とアタックとレシーブの練習。その結果、3年生最後の試合に初めて出ることができました。その後、3年生を送る1・2年生との試合で、アタックを決めることもできたのです。

試合後、ふだんほめることのない監督の先生の言葉が、とてもうれしかった。

「最後の最後で、一番伸びたな」

「一緒に酒を飲みかわしたかった…」

高校では、なにか熱中できることを見つけたいと思いました。そして、自分も表舞台に立てることをやりたい、という想いで、ラグビーを選択しました。3歳上の兄が高校でラグビー部のキャプテンをやり、チームのメンバーを引っ張っている姿を見ていたからです。

高校に入ってすぐ1年のときからレギュラーに選ばれました。授業はあまり出ませんでしたが、夕方ラグビーの練習に行くことが楽しくてしょうがなかったのです。練習が終わっても、一人黙々とひたすらタックルの練習。

初めて熱中できるものを見つけたよろこび。さらに、もっと強くなりたい一心で、2年のときに、自らキャプテンに手をあげました。これで、弱い自分と決別できる!もっとチームを強くしたい!そう思ったのです。

ところが、チームはバラバラ。一生懸命練習メニューを考えて、朝練や日曜練習を計画しても、だれも集まらない。アルバイトがあるとか遊びたいとか、それぞれの言い分で、わたしの一方的な想いを口にしても伝わりません。
わたし一人空回り。口でなにを伝えていいのかわからなくなり、黙々と一人で練習していました。

すると、3年になると、遊んでいた同級生が、「つきあうよ」と言って、一人二人と練習に朝練に参加してくれるようになったのです。そのメンバーが、周りのメンバーにも声をかけて、引っ張ってくれたのです。

「やっと、仲間ができた。がむしゃらでも、やり続けると通じるんだなぁ」

そんなよろこびを初めて味わうことができたのです。

大学卒業後、証券会社に就職しました。高校でラグビーをやり熱中するものを見つけたことで、弱い自分から積極的な自分に変わることができました。もっと積極的に自分を変えたかったのです。

コツコツ飛び込み営業をする中で、「これからもっと大きなことができる」という自信がつきました。

証券会社で3年。その後、小さな会社で4年。仕事全体を任され、どうすれば仕事が回っていくのが見えたところで、30歳のときに独立をしました。

サラリーマンの父が、収入が足りないところを夜バイトをしてお金をかせいでいる姿を見て、大変だなぁと思っていたのです。「なんか、自分でやっていきたい」と強く思っていたのです。

父は、祖父が65歳でがんで亡くなったせいで、「おれも65歳まで生きられるかなぁ」とよく話していました。わたしが30歳の頃、祖父と同じ65歳で、父はがんで亡くなりました。

「これから、親孝行したいと思っていたのに。
もっと、一緒に酒を飲みかわしたかったのに…」
父の死をきかっけに、自分は、いつまでも健康でいたいと強く思うようになりました。

大学時代

「おれは、もういいから、帰るよ!」

30歳で独立したときの仕事は、山梨県で、ビルに使う天然石の研磨や清掃の仕事でした。当時は、山梨でも仕事があったのですが、徐々にビル関係の仕事が減っていきました。

40歳のとき、このままではまずいと思い、東京に進出することにしました。朝早く起き、車で長時間運転して、東京と山梨を往復する生活。仕事は増えてきたので、週3日は東京へ行っていました。

「仕事を取らなきゃ」とどん欲に仕事を引き受けていると、お金を回収できない事態も起きてきました。お金を回収するために、「お金を払わないなら、出るところに出るよ」とか「あんたが払わないなら、依頼主に話すよ」ときついことも言うようになりました。

心も体も余裕がなくなり、イライラすることが多くなり、カミさんともケンカが絶えなくなりました。家族三人での夕食もみんな黙ったまま口をきかない。そんな生活が一週間も続くことがありました。

ある日、一人娘が小学校1年生になったので、家族三人でディズニーランドに行くことにしました。

「次になにに乗る?」「いや、乗らない」という会話をしている最中に、お客さんから電話。カミさんから「また電話出るの!」と言われると、ついカチンときて、「だれのお金で来れたと思ってんだ」と言い合いになる。

結局、ホテルに入るまで、イライラしながら遊びました。ホテルに入ると、わたしは、ストレス解消のため、すぐにお酒を飲み始めました。

すると、カミさんから「せっかく来たのに、夜は行かないの!」と言われました。わたしはイライラして「疲れているんだから、おれは行かないよ」と言い放ちました。

「わたしたちは行きたいのに、自分勝手じゃない!」とカミさんに言われたので、ついにわたしもキレてしまいました。

「おれは、もういいから、帰る!」

と言って、部屋を出て行きました。

結局、カミさんも「わたし一人じゃ運転できないから」といって帰ることに。せっかく予約したホテルに泊まらずじまい。

帰りの車の中では、カミさんは「こわい、こわい」と泣きながら運転。口を開けばケンカ。娘はひと言も言わず、ひたすら泣いていました。

家庭の中は、ギスギス。仕事でもイライラ。毎日、ヤケ酒を飲んでストレス発散。朝早く起きて、車で東京に向かう。こんな体を酷使した生活をしていると、ある日、顔を洗うとき、腰を曲げると激痛が走りました。

独立して15年、45歳のときでした。これでは仕事どころじゃない、と思い、いろいろ調べまくりました。そのとき出会ったのが、ヨガだったのです。

なぜ、私が【いたわる】を使命と掲げているのか?

腰痛について調べた結果、ヨガがよさそうなので、地元のヨガ教室に参加しました。70歳くらいのおばあさん先生が、「今日は体の調子わるいところ、ありますか?」とやさしく聞いてくれます。

決まったポーズ、のんびりした流れ、途中で休める。一回目から「こんなにもリラックスできるなぁ。これなら続けられる」そう思いました。

無理なく、気持ちよく、体にやさしい。仕事一筋で、仕事はイライラ、家庭もギスギスしてのが、心おだやかに、体もほぐれていきました。

そんなとき、ふと思ったのです。

すべて仕事!仕事!で、一番大切な自分の体をいたわって来なかったなぁ、と。

体を酷使し、自分の体をいたわって来なかったために、腰痛になってしまったのではないか?

体は悲鳴をあげていたのに頑張ることで、心も余裕がなくなり、カミさんに当たる。カミさんにいたわる気持ちがないから、ケンカになる。

そう考えたとき、わたしがいたらなかったのは、"いたわる"ことではないかと思ったのです。

小学校の少年野球で、フライを取れない自分をいたわることができずに自分を否定してしまったので、すべてのことから逃げ出した。

高校のラグビー部のキャプテン。自分の想いだけで突っ走ってしまい、部員へのいたわる気持ちがなかったので、まとめられなかった。

すべてにおいて、"いたわる"ことが足りなかったのです。

そこで、わたしは、【いたわる】を使命と掲げることにしました。

すると、カミさんとの関係にも少しずつ変化が生まれてきました。

カミさんは、わたしの顔色、歩き方、ドアの閉め方を見ては、話すとケンカになると思っていたそうです。

ところが、ヨガをやるようになって、わたしが穏やかになって、「話しかけやすいような雰囲気が出てきた」と感じたそうです。??次第に、カミさんと、当たり前のように「ありがとう」や朝の挨拶「おはよう」が自然とできるようになっていったのです。

ヨガを習う中で、「ヨガを広く伝えよう!」という強い意志と熱心な宮本先生と出会いました。熱い人であり、生徒にも気さくに声をかけるので信頼が厚い。いつも宮本さんのもとには人が集まっていました。

母、小学校の加藤先生、ヨガの宮本先生。相手想いで、熱い想いを持っている。そんな人と出会うと、わたしもあんな風になりたい、と強く思うようになったのです。

一方で、高校のラグビー部のキャプテンのときのふがいない経験。勝ちたい一心で、こちらの熱さを押し付けてしまった後悔の気持ち。

そして、40歳をすぎて、仕事一筋で生きてきたので、漠然とした寂しさがありました。いつまでも健康でいて、つねに前向きに生きていく”仲間”が欲しい、そんな想いがありました。

宮本先生の熱い想いと気づかい、人をまとめる力を見て、わたしも、ヨガを教えたい!と思うようになったのです。

健康ヨガ教室写真

いま、ヨガ教室を始めて3年。2つの教室を持ち、5つのところから依頼で教えにいくまでになりました。

生徒さんから「来てよかったぁ」「ここが唯一の楽しみ」といっていただけると、ヨガを伝えてきてよかったと思います。

「息子たちから『お母さん、体やわらかいじゃん』と言われます(笑)」

「整体の先生から『体が、年齢の割にやわらかいでsねぇ』と言われたんですよ」

「女房がいうには、家にいるときでも『背中がまっすぐになっている』と」

このようなよろこびの声をいただけることが、わたしのなによりのよろこびです。

「ずっと、健康でいたい」

「一生、自分の足でしっかり歩けるようにしたい」

「体を動かすことが良いので、できる限り、ヨガもフォークダンスも続けたい」

このように望む50歳以上の方のために、【いたわる】を使命にお役に立ちたいと思っています。

最後に、

つらい想いをさせたけど、
これまで一緒に歩んできてくれたカミさんに、ひと言。

「いつまでも元気で、そばに寄り添っていてください。
ぼくも、いたわりの気持ちで、がんばります!」

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